若き青年時代の父は言ったのだそうです。
「なくなったものはしようがないから、気にしないでいいよ」と。
ふむ。
まぁ家族の間ではよくあること。
それから姉と弟は成人し、それぞれ家族を持ち、それぞれの人生を歩みます。
青年は父親になり、約35年後の50代前半、病で亡くなりました。
一方でかずえおばちゃんはずっと心の中で、あの時失った万年筆、
そして早くに失った弟のことを気にかけてくれていたようです。
弟の大切な万年筆をなくした自分を、どこかでずっと悔いていたようでもあります。
そして、このまっさらな万年筆が届いた。
父の位牌の前に贈ってくれたというわけです。
万年筆がなくなってからは60年。
驚きました。
窓の向こうのかずえおばちゃん
28年前、父は急性骨髄性白血病という思いもかけない病にかかり、
発病からわずか2ヶ月ほどで亡くなりました。
緊急入院後、一度も病室を出ることは許されず、
おじやおばが遠くからお見舞いに来てくれても、一切病室に入ることもできなかった。
(菌やウイルスに対する抵抗力が急激に落ちる病であったため、病室に入室できるのは
消毒薬を使い、またマスクや専用着を着用した妻と娘だけに厳しく制限されていました)
3階にあった父の病室。
ある日窓から外をふと見ると、病院の駐車場に全身で手を振るかずえおばちゃんがいました。
宮城から関西の田舎町まで、丸一日かけて会いに来てくれたのでした。
開けられない窓。
「おおおおお〜〜〜いい」と、大きな声で叫んでるのはおばちゃんの口の形でわかる。
両手を大きく振りながら、こちらに向かってピョンピョン飛び跳ねていた。
その全身が、なんというか「丸ごと笑顔」なのは、遠くから見てもすぐわかりました。
「お父さん!かずえおばちゃんだ!!」
「表行って、おばちゃんにお礼いってこい!」
「うん!」
父の指令でした。
私は病室を飛び出しました。
父のベッドが窓向きじゃないことが本当に悔しかった。
ベッドから動けない父、
生きる力を、父に全身で送り込んでくれているようなおばちゃんのその姿を、
どうしてあの時、私は見せてあげられなかったんだろう。
難しい病気だ。もしかするともう治らないかもしれない。
生きてる弟に直接会える機会など、もうないのかもしれない。
そんなことなら誰だって思ったはず。
遠い窓の向こうで、病気と闘う弟に向かって
一点の曇りもない元気な声で、
ただただ「おおおお〜〜いい」と呼びかけ続ける姉。
人目も構わず、飛び跳ねるおばちゃんの姿は「エネルギーの塊」でした。
駈け出しながら、私は泣いてる自分がちっさく思えて恥ずかしかった。
血の繋がった姉と弟の間の最強のエール。
その時、かずえおばちゃんを
私は世界一かっこいい女性だと思ったのです。
父に一目も会えずに、また長い道のりを帰ることになった状況についても
一言も責めませんでした。
その後、姉弟が会うことはなく、父はまもなくしてこの世を去りました。
「思い残す」ということ
失った人、もう会えなくなった人に「思いを残す」ということ。
後ろ向きなことでしょうか。
後ろを振り返らずに生きることを「前向き」というのかなぁ。
まぁ、それはわからないけれど。
亡くなって30年近く経った今も
「誰かが父を思い出してくれること」を、娘はありがたいと思うこの頃です。
大事な人として、誰かがそこに生きていたことを。
そして願わくばこの万年筆で、おばちゃんの中の負い目もおしまいになってくれると嬉しい。
なんたって春の病室の窓ごしに出会ったあの瞬間から、かずえおばちゃんはずっと私の理想の女性なんですから。
・・・かずえおばちゃんのようになりたいな。
そんな風に年を重ねていきたいものだと密かに思う年明けです。
年明けは、南インドカレーを食べながら。
1/22古民家でのイベントから始まります。(お申し込み受け付け中)
2016/1/22(金)「ゆるくアーユルヴェーダと南インドカレーを楽しむ週末ナイト」