文字のひと〜父の絵葉書
2014年 12月 21日
いつどこに行ったか何をしたかを、ただただ細かく書きつける姿を見て、
若かった私は、そんなことして何が楽しいんだろう…などと思っていました。
思っているだけでなく、何度か本人に言ったような気もします。
おじいちゃん、それ何が楽しいの?と。
祖父はにこにこ笑いながら、とくに反論もせず、ただ淡々と死ぬまで記録を続けました。
亡くなった後、遺品の整理をする中、大量の広告の裏紙に書き残された原稿を見つけました。
50代の若さで死んだ父も文字のひとでした。職業的船乗りであった父。
一方、知ったひとの誰もいない都会で、一人で生き始めた私。
「友達ができずに、寮の部屋で1人ぼっちでいるのではないか」
その時分の私は、まさにその通りだった。父はどこかで見ているのかのようでした。
船乗り故の留守、さらに早世だった父。
娘たちと一緒にいられた時間も短かかったし、あまり口にも出さない人だった。
もし私が1人暮らしをしなかったら、父から手紙をもらうことはなかったのかもしれません。
父が娘に傾けてくれた思いを「文字」で知ることもなかった。
言葉は、人を傷つけることも、救うこともできます。
その対象は他者だけでなく、自分も含めてなのだとこのごろ思います。
傷つけることも、救うこともできる。
だからこそ、自分は言葉とどう向かいあっていくのか。
自分の言葉の先にいるのは誰なのか。
ただしいこと、いかにも流麗なことばがココロに深く届くとも限らない…。
じゃ、ほんとうに大切なことはなんなのか?
正解はわかりません。
それは相手が他者であっても、自分であっても、
ーはじめてのアーユルヴェーダ*ワークショップー
「じぶんでできるじぶんメンテナンス」
2015年冬から春へ 編