瞑想セッションとコトバ その2
2014年 07月 17日
その1はこちら
小池龍之介瞑想セッション@「銀座おとな塾」
瞑想1本目。果たしてみごとに寝てしまう。小池さんの目の前のポジションに座っておきながら、だ。ひどい。自分のアタマががっくんがっくんなっている。「しまった!寝てしまった!」と心が反応する。
ちがった。大事なことは「わたしは今、寝てしまったのだなぁ~」だった…。
「自分の中の自然を最適化してみます」
小池さんのことばを聴き、目を閉じ呼吸を意識しながら、ただあぐらをかいて座っている。おなかの中が徐々に落ち着いて来る。気づくと座っている辛さはない。整えようとしない。自然の循環の力に任せる。とても平易な言葉で語られる小池さんの「インストラクション」。余分な色合いを持たず、付かず離れず、そこにある心地よさ。3本を終えるころは、来る前に比べて、自分の中が落ちつき始めていることが感じられる。大切なのは「耳をすます」「眺める」
「ありのままでいい」ってことが、世の中じゃ大音量で何万回も語られていますよねぇ。でもそもそも「ありのまま」っていうのは、そんなに大音量で語られるべき質のものなのかな…?ずっと違和感がありますのよ。いや「ありのまま」が良いとか悪いとかではないのです。ただ、スローガンにまでなった「ありのまま」って「ホンモノのありのまま」なのか?って感じ。
「かっこいいところだけを抜き取った、極太ゴシックの“ありのまま”」(そんなのあり?)「ありのままは、なんだっていいのか?」(そんなに無敵?)
あるいは少し前、うんざりするほどよく聞かされた「あるべき姿」というコトバ。会議などでも繰り返し真顔で語られ、インフルエンザのように流布されたフレーズ。
ねーねー、ソレ誰にとっての「あるべき姿」?
聞いてみると、「うーん。会社でしょ」とかいう答え。
おお!言ってる本人のものですらないのね…。
生きてると、時に驚くほど「実(じつ)」のない言葉も大量に送り込まれてきます。
「あるべき姿」→「ありのまま」→「あるべき姿」→「ありのまま」
振り子のような流行りすたり。
「私が」「私が」は、結構難しいもんだい。
自分の意見を持ちなさい。自分らしく生きなさい。
自分らしく生きることをを薦める「前向き一辺倒のメッセージ」は世の中に溢れている。
でも、その許容範囲は案外狭くて、世の中を余計息苦しくさせているみたい。
そんなものさしのもとで、膨らんだ自意識を手放すのは意外と簡単ではない。
だから世の中が「ありのままバンザイ」にすがりたくなるのかぁ〜。
もはや、なにが自分らしくて、なにが自分らしくないのか?
うーん。わからない。でも、ま、個人的には、わりとそこは「置いといてもいい」気がするけどねぇ。
コトバの意味を置き去りにしない。そして人任せにしない。
もっと大切にするっていう方法はあると思うよ。
世の中が唱える極太ゴシックの“ありのまま”や、持ちきれないほどパンパンに膨らんだ「私が」「私が」に
これ以上振り回されないために。
コトは一定のところに行き着くと、反対に振れたくなる。
固まったカラダが「寝返り」を打つことでニュートラルを取り戻そうとするように。
座禅セッション参加。私には思いがけず「コトバとの向き合い方」を考えるきっかけになりました。
次回は、小池さんが住職を勤める月読寺へセッションを受けに行ってみたい。
ビルの中でする座禅瞑想とは、なにか違うものを感じるかも(感じないかも)。
ま、やってみましょ。
*「銀座おとな塾」は、なんと2014年7月末で営業終了になってしまいました。なかなか落ち着いたいい環境だったのです。なので残念よ。
小池龍之介さんのサイト
掲載された一句
「夏や来る 残り何回 今生に 夏を味わう チャンスのありや」
いやん!ぐっときまっす!