追い越してゆく日
2017年 07月 04日
今年、7月初めの日、私は小さな節目の日を迎えました。
この日は私が「あの年、父が亡くなった年齢」に追いついた日です。
父が亡くなって丸27年。
いつかこの日が来ることを、私は頭のどこかでずっと思い描いていました。
享年54歳。丈夫な心身が持ち味で、病院にかかったことなんかなかった父が、
珍しく長引く風邪?を引き、母にお尻を叩かれて、渋々と休日診療にかかったあの日。
父は「病の人」になりました。
手入れした革靴を履き、自力で歩いて診察室に入って行ったはずなのに「あなたは、もう歩けないはず」と唐突に言われ、車椅子に乗せられたという父。
2度と自宅に帰ることはできませんでした。
血液のガン。皆がよく知る有名俳優氏と同じ病気でした。
歩けるはずがないと医師に言われるほどの貧血状態でありながら、父本人はそれを誰に言うでもなく、ただそこにいて、残されたのは持ち主を失った靴だったというわけです。
「1年はもたないかもしれません」
唐突にそう聞かされた母が、東京で暮らす私に泣きながら電話をかけてきた夜。
日本海側の田舎町に珍しく、いつもより桜がうんと早く咲いた春。
お彼岸の日に、桜の花の下を抜けて父はあっちの世界に行きました。
あの俳優さんは治ったのにね。父さんはなんでいなくなったのだろう?
54歳。おじいちゃんと呼ばれるにはまだまだ早かった。
喪服なんか着たことが無かった私が、慌てて借りた黒い貸し衣裳。
裄丈がつんつるてんに短いのが恥ずかしくて、ずっと腕を縮めていた葬儀の日。
これじゃあさー、まるでおそ松くんのガンモじゃん?と妹とこっそりふざけて笑ったこと。
こんなに早く連れていかれるなんて、誰よりも本人がびっくりしてるよ。
お父さん、自分が死んだことに気づいていないよね、きっと。
たくさんの参列者に一生分のお辞儀をし、泣いたと思ったら、こそこそ馬鹿なこと言って笑ったり、家族はいろいろと忙しい。
それから数年後のこと。
ある時、テレビで俳優の中井貴一さんが話す姿を見ました。
中井さんのお父様は、佐田啓二さん。1964年、交通事故で命を落とされた昭和の名優です。享年37歳。当時わずか2歳だったという息子の中井さん。
お父さんを知らず成長するにつけ、自分は父親の年齢までまで生きられないんじゃないかと思いながら、生きていたと語られていました。
ああ、わかる。
私は直感でそう思いました。
どんな死だって、準備なんてものは決して整わないものだろうけれど、それでも想定外の身内の死を経験した家族は、置かれた状況を受け入れるのに時間がかかります。
あまりの理不尽さに、無理やりその理由や意味を見い出そうしたり。
そこには意味なんかないというのに。
父と私。
異性の親子だからか、私は父の年齢まで生きられないのでは?と思うことはなかった。
ただあんな風に、大急ぎで命を持って行かれた父が、妻と娘2人を残しこの世から去っていく自分に、一体どんな思いを抱いていたのか?ずっと気になっていました。
闘病中、一言も愚痴ることのなかった、あの姿とともに。
せめて自分が同じ年を迎える時が来たら、父の何かがほんの少しはわかるかもしれない。
ずっとそう思っていました。
「考えすぎじゃない?」
これは私の人生で、私が眺める景色です。
27年の時間が流れ、今年とうとうその日が来ました。それはとても静かに、どこかあっさりと。
・・・・
誕生日の朝、ハハからメールが届いていました。そして不思議なことに、そこに父がいた。
「あの日、予定日に出てこなかったのでとうさんと宝ヶ池まで歩かされたんですよ!そしたらその夜からしくしくとなり、次の日の夜明けにお生まれになりました。おめでとう!」
相変わらず、ハハのメールはのんきな調子のひらがなです。
へえ?そんな話、今まで一度も聞いたことがなかったよ?
20代の若い父と母。
人は大切なことを伝えたいと願う。
しかし、どうしてか生きてる間には間に合わない。肝心なことを伝えそびれ、聞きそびれ。
「思い残す」なんて言葉もあるけれど。
残した思いは、一体どこに行くのかな。
お父さん。
私もあなたと同じように「いつか死ぬまで」を、そう、粛々と生きていきますね。