【誰がアーユルヴェーダを学ぶのか?】くれはる2017年編
2017年 05月 27日
在学中の日本アーユルヴェーダ・スクール。今、私はその最終学年にいます。
全250時間のカリキュラムのちょうど折り返し地点。今日は「中間試験」が終了しました。
恩師クリシュナU.K.先生、入魂の試験問題とガッツリ向きあった1日。(汗)
終わってみると足りないとこだらけで、「とほほ感」を伴うほろ苦さ。
これも何かの節目だ。
あんまり普段ここのブログでは書かない「私個人のアーユルヴェーダとの関わり」について、今日は「今現在のかたち」をちょっと書いてみようと思います。
私とアーユルヴェーダ。立ち位置イマココ
いきなりですが、現実の私はスピリチュアル的なことに全く疎い人間です。
子供の頃から、親には理屈っぽい子と面倒くさがられ(笑)、今もどちらかというと「男性的な論理的思考」が少し多めかもしれません。
そんな私がアーユルヴェーダに惹かれる理由。「スピリチュアル的な意味合い」と言う面は今のところほとんどなくて、どちらかというと、圧倒的に合理的で論理的な視点に惹きつけられてのことです。
これがアーユルヴェーダに向き合う私のベーシックな立ち位置<ーーイマココ。
で、私がアーユルヴェーダを合理的で論理的だと思う理由。
この部分には本当に分厚いナレッジがあり、それは現代に生きる人たちにもっと生かされていい「宝の山」。学べば学ぶほどほど、驚くことばかりです。
だってここまで何千年もの、様々な治療や臨床に関する蓄積があり、それらが今現代まで引き継がれているんですもの!!
実践科学と呼ばれるアーユルヴェーダ。
長い歴史の上で、積み重ねられた実践の結果、それらが「次世代」に向けて脈々と引き継がれ、今に生かされているとしたら?
一時的に流行っては消える「健康法」や「民間療法」とは、一線を画すものと認識しています。
「そういうことになっている」
そんな私ですが、アーユルヴェーダと自分の関わりについていうと、それは全て、、、、
「そういうことになっている」
ただそう思っています。
なんの覚悟もなく、フッと押し出されるようにアーユルヴェーダを学ぶ学生になった2013年。一時挫折もしながらも、結局学びを止めることはなく、今に至ること。
加えて「アーユルヴェーダ案内人」などという活動を、小さいながらも続けていること。
これらは全て、自分がやりたいとか望んだとか、
「そういうことになっている」
ただそういう感じで、他にどうにも言いようがありません。
以上終わり。という感覚なのです。
「自信」をガソリンにはしていない
で、こんなことやこんなことをやっているせいか、アーユルヴェーダ活動についていろんな方とお話しする機会が、最近急に増えました。
そこでそれぞれ活動をする上での「自信との付き合い方」について、問いを投げかけられることがあります。
活動にあたって「自信のなさ」で考え込む人が多いのかも?ということなのかな。
「くれはるさんは(こういうことをやれて)自信があっていいな・・・」
私はアーユルヴェーダ案内人活動において「自信」を「ガソリン(燃料)」にしていません。
先生方から、古典書に基づく叡智を授かり、この手にやってきた「アーユルヴェーダのバトン」。
あとねぇ。。。。どっかで気づいてしまったのもありますね。
「がむしゃらに何かに励めば、自信はいつか必ずそこについてくるもの」というのが、必ずしも真実ではないということに。
あ、これは頑張ってもムダ、と言うことではないです。
「頑張ること」と「自信がつくこと」は(ある面において)まったく別ステージだということです。
だからもう「自信」にはこだわらない。
それよりも大事なこと。
「目指す場所」に一歩近づくためには、何をどうするか?
課題を洗い出し、施策プランを立て、それにどう取り組んでいくかを考え、実践していくこと。もちろんうまくいくこと、いかないことありますが、その時はまた原因から考え、新たに施策を積み重ねて行けばいいのだと思っています。
まあいつか「素敵な自信」が白馬に乗って(?)やってくるかもしれないし、こないかもしれない。
ええ〜〜〜自信がない?のに活動してるの?
もしかしてそう思われるでしょうか。
そこへの答えは・・・?そうねえ・・・・
「だって、そういうことになっているんだもの」
といったことに、なりそうです。
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アーユルヴェーダはやっぱりどこまでも深く広く、私一人がジタバタしようとしまいと、決して揺らぐことなんかない。豊かに葉を茂らせる大木のよう。日陰に宿る命たちを、決して見放さず、守ってくれる。
真摯に学ぼうとする人間に、アーユルヴェーダはいつだって優しい。
6/4は京都の町家でワークショップ開催!