今年最後の坐禅セッション@月読寺へ行ってきました。
小池龍之介さんが主催するこの坐禅会は、誰でも参加できる開かれた場所です。
予約も不要。
鎌倉は稲村ヶ崎の山の上にある月読寺で、現在は月二回開催されています。
午前に開催される「初心者向け」と午後に開催される「既習者向け」があり、
「既習者向け」の後は「寺子屋」と称される、参加者の質問に小池さんが答える
問答の時間があります。
参加料は、お布施です。各自が玄関に置かれたお布施箱に入れていきます。
私が参加しているのは「既習者向け」です。
坐禅を組むとすぐ寝てしまう。そんな私が通える坐禅会
「既習者向け」についてはこうです。
プログラムは13時から16時の計3時間。最初の1時間坐禅を組み、次の1時間は畳の上を歩く、歩行禅。
最後の1時間でまた坐禅を組みます。
私は何年たっても、また毎回のことですが、最初一回目の坐禅では私は雑念だらけ。
さらにあっさりと前後不覚に寝てしまう。
小池さんのインストラクションを聞きながら、しんとした緊張感のあふれる場に
全くそぐわないほどの勢いで、座ったまま寝てしまいます。
(よく倒れないでいるもんだと自分でも思うほど)
そんな人が他にいるのかどうかわかりませんが、あるとき小池さんが
「もしも眠ってしまったら、ああ眠ってしまったのだなぁ、でいいのですよ」
と言われたのをいいことに、そこにはもう抗わないことにしています。
そう、ここで大事なことは「いい・悪い」を判断しないこと。
いい悪いを判断せず、ただただ「今は○○なのだなぁ、、、」と眺めるのみ、
という緩やかな決まりがあるのです。
その緩やかな決まりを、小池さんが繰り返し繰り返し言葉に乗せて
修養中の私たちに伝えてくれます。
いい・悪いを横に置き、「今ここ」に意識を向けます。
一本目の坐禅は(恥ずかしながら)びっくりするほど寝て、次に歩行禅が始まる頃、
ようやく自分が、この場所の時間に馴染み始めるのがわかります。
歩行禅は、歩きながらする修養。畳の上をゆっくりと、自分のつま先の動きに意識を向けて
ただ静かに歩き続けていきます。
ここまでくるともう寝ません。
まぁ、歩きながら寝ることはなかなかできませんから。
でもまぁ、ああよかった・・
ここでは「いい・悪い」を判断しない。
いい、悪い、いい、悪い、いい、悪い。。。
私たちの日常は「判断」と「評価」に溢れています。
いい、悪い、いい、悪い、いい、悪い。。。
短時間で正しい判断を下せることが、すぐれた人間であるかのような世の中。
人が人に下す「判断」、それはすなわち「評価」です。
判断し、判断され、評価し、評価される(あるいは評価されない)
日常は、目まぐるしいまでのその繰り返し。
評価されると喜び、評価されないと悲しむ。
また、○○はいい、□□は悪い。
まるで「神」にでもなったかのようです。
気にするにしても、気にしないように努力するにしても、
人の心のなんと忙しいことでしょうか。
いつしかどんどん呼吸も浅くなる。
ストレスというものも、これらと決して無関係ではないでしょう。
小池さんはこう言います。
誰それに何々と言われた。仕事で失敗をした(それは終わった過去のこと)
明日は何々が起こるかもしれない・・・(それはまだ見ぬ未来のこと)
これらはどちらも「今ここ、のことではなく幻である」
幻であることとして、手放していく。
ここでの時間は「いい・悪い」を判断しない。
ただ、「今は○○なのだなぁ」と事実を眺めること。
これが基本の決まりです。
心の有り様を整える、今ここにあることに足りていく。
何事もポジティブに考えましょう!
昨今大流行りのこの言葉、この風潮を、どこか違和感を持って見ています。
ポジティブが悪くて、ネガティブがよいというのではないのです。
多分、そこが二元論であることに違和感があるのだと思う。
「何事もポジティブ側に一気に倒せ」に、不自然さを感じてしまうから。
自然にならえばわかること。光と影は必ずセットです。
光があれば、影がある。
太陽の光、月の光、そしてその影も、人間の都合でコントロールすることはできないもの。
これはまさに、いい・悪いではありません。
こういうことに、人間は謙虚にならざるをえないと思う。
よりよく生きることを考えるならば・・・
食べものを選び、体を動かし、日々の生活習慣を整えながら生きる。
学びを怠らず、自然に触れる。
坐禅や瞑想、ヨーガで自分の心の有り様を整える。
その結果、よりよく生きることに(いつしか)つながっていた。
そのくらいがまぁ・・・「自然」なんじゃないかと思うのです。
「何事もポジティブに考えましょう!」よりも、
私に受け入れようがあったのが「いい・悪いを判断しないこと」
「判断力」が常に大きな評価軸である世界に生きてきた自分にとって、
もちろん最初は相当驚きましたけれど。
今ここにあることに足りていく。
足りて生きていく。
私にとって坐禅会はそのための自分の中のお掃除時間であり、修養の時間です。
寺子屋の時間
1時間の坐禅、そして1時間の歩行禅を終え、この日最後の坐禅の時間になると、
どこか心も落ち着いてきます。
もう眠ることはありません(笑)
少しづつ自分の中が凪いで行き、不思議なことにふっといいアイディアがクリアに浮かんだりもする。
これは今回の思わぬ発見でした。
終了後、小池さんと参加者の問答が交わされる「寺子屋の時間」
寄せられる質問を聞き、日本で働く大人の根源的な悩みに密かに共感したりする時間です。
忙しく働く日々、尽きない悩み、押し寄せる情報から離れて、
スマホも切って、いっとき心のメンテナンスを。
高かった陽もだんだん傾いていき、道場を出ると夜の帳が降りていた。
写真は、稲村ヶ崎の海岸で。
いつも今ここ。それが海。
お手本は、いつもこんな近くにある。
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